金沢克彦の不定期コラム 第2回 チャンピオン・ベルト

先だっての5月2日、愛知県体育館で浜亮太を破った鈴木みのるが2年8カ月ぶりに三冠ヘビー級王者に返り咲いた。右膝手術による武藤敬司の長期戦線離脱、小島聡の電撃退団発表と現在の全日本プロレスは激動・激震に見舞われている。そんな状況下、みのるが頂点に立ったわけだが、私に言わせれば必然の戴冠劇。
一般的に“激動・激震”と“必然”ではイコールに程遠い言葉となるのだが、三冠ヘビー級王者=鈴木みのるに関しては必然という単語がもっとも相応しいと思う。

かつて外敵、外様、フリー戦士と呼称されていたみのる。だが、全日本マットをここ数年見守ってきたファンにとって、今のみのるの存在はすべての枠を超えた絶対エースと映るだろう。紛れもなく彼が全日本マット全体をリードしている立場にあるし、今回3本のベルトを手にした直後に太陽ケア、曙、船木誠勝との共闘を宣言したのもサプライズとは思わない。その後、諏訪魔率いる新世代軍に「昨日今日プロレス始めた奴がプロレスを語るな!」と宣戦布告したのも必然の流れだ。
つまり、今のみのるにとってそこに3本のベルトがあるのは特別なことでもなんでもない。絶対的エースとしての必然なのだから、力む要素すら何もない。
では、この瞬間、みのるは何を思っていたのか?勝手に推理するなら、この瞬間やっと船木を超えたことを実感できたのではないだろうか?いやいや、こんな話を本人に振るともう大変だ。「フン、勝手に言ってろって。恥をかくのは書いた人間だから俺は関係ねえよ!」と鼻で笑うに決まっている。だから、これは私の勝手な理屈付けである。とにかくこの日、鈴木みのるは永遠の目の上のタンコブであった船木誠勝を超えてみせたのだ。

まず、ここ2カ月の激動期を少し振り返ってみたい。
3・21両国大会の金網マッチ、4・11JCBホールの『チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦と、みのると船木はまさかの2連戦を決行した。みのるは22年のプロレスラ―人生で培った引き出しを次々と開けて船木に対していった。その結果(1勝1敗)は別として、この闘いを体感したことで悩める船木は完全に蘇生している。みのるとの2連戦を経て、明るさと輝きを放ち始めたのだ。今までブラックホールの如く相手の光を消す闘いしか知らなかった男に、みのるが初めてプロレス本来の楽しさと厳しさを教え込んだと言っていいのかもしれない。

4・29後楽園ホール。みのると船木が初タッグを結成する当日、試合前の船木はにこやかにこう言っていた。
「毎日キツイし無我夢中だけど楽しいですよ。実は俺、今まで自分の試合をビデオとかで一度も見直したことがないんです。それは観てしまうと多分、ここがダメだからこうしなきゃとかそんな点ばかり見つけてしまうと思うから。今はこれでいいから、行ける所まで突っ走りますよ。プロレスと格闘技をやってきた財産と、その時の感性で走ります。もしどこかで怪我とかしてストップしてしまったら……そこからまた考えればいいんですから」
真っ黒に日焼けした船木の顔から松崎しげるばりの白い歯がこぼれる。その笑顔には一点の曇りも感じられなかった。完全に吹っ切れたのだろう。

考えてみると、みのるとチャンピオン・ベルトの関係は元々、みのると船木の関係そのものであった。
鈴木みのるが初めて巻いたベルトは第2代キング・オブ・パンクラシストのベルト。95年の5・13東京ベイNKホール大会で無敵のウェイン・シャムロックを下し王者となった。この時、みのるの胸中に去来した思いは「初めて船木さんを追い越した」である。だが、それが転落の始まりでもあった。当時、バッキバキのハイブリッドボディを誇り、人気俳優の的場浩司似とも言われていたみのるを世間は放っておかなかった。例えば女性ファション誌『an・an』の抱かれたい男ランキングでは堂々とベスト5に入っており、なんとキムタクよりも上位。周りはすべて芸能人だから、本当にとんでもない快挙である。
これでテングになったかどうかは分からないが、リング上では4か月後の初防衛戦(vsバス・ルッテン)に敗れ、その後、頸椎ヘルニアを発症してさらなる地獄を味わう。しかし、転落の発端は「船木を超えた」という達成感に満たされたことで、目標を失ってしまったことにあることは明らかだった。
「実際は追い越してなかったし、超えるものじゃなかったんですよ。でも俺の中の目標は、新弟子時代いつもランニングしている時に見ていた(船木の)背中だったから」
おそらく、この経験からみのるはチャンピオン・ベルトの怖さや、チャンピオンであることの意味合いを痛感したのだろう。

だからこそ、初めて三冠ヘビー級王座に挑む(06年9・3札幌大会/vs太陽ケア)前に、みのるはこう言っていた。
「初めてベルトを獲った時に勉強したんだろうね。ベルト、タイトルを目標に生きてきて、それを持った時に目標がなくなって……『大事なのは獲ることじゃないんだ』って。それは目標にするものじゃなく、後からついてくるもの。レスラーとして絶対に大前提にしなきゃいけないことは、まず『相手に勝つこと』で、その上の世界として『客を満足させるだけの技量があるかどうか』っていうのがあって、ベルト云々はそのさらに先にポツンとあるもの。やっぱり俺にとって大事なのは『今この瞬間が一番大事』なんであって」
パンクラス時代、勝負論だけで生きてきた男が、新日本、ノア、全日本の三大メジャーのリングを渡り歩き、辿りついた答えがそこにあった。
そして、三冠王座を1発で奪取したみのるは、伝統と格式に包まれた3本のベルトをブンブンと振り回し、踏みつけにして、花道の特設ステージに無造作に並べた。そこへ津波のように押し寄せるファンに向かってみのるはこう訴え掛けた。
「なあ、ベルトがすげぇーんじゃないだろ?強い奴がすげぇーんだろ!?」
さらにバックステージでは、マスコミ陣をこう諭している。
「大事なのは歴史なんかじゃない。今この瞬間、頑張っているから、今この瞬間、闘って二本足で立っているから強いんだろ?」

そして、チャンピオンとなったみのるは、また別次元の作業に着手し始めた。
ベルトの価値を上げることではなく、ベルトを利用してタイトルマッチの注目度、ひいては全日本マット全体の注目度を上げる。つまるところ、それは自分自身の価値を上げることでもあった。
みのるの第一次政権は翌07年、8・26両国大会で佐々木健介に敗れるまでの約1年間。19年のライバルストーリーを持つ健介との試合も凄まじかったが、なんといっても5度目の防衛戦となった武藤敬司との正真正銘の初一騎打ち(同年7・1横浜大会)が印象深い。完璧に整った舞台で全知全能と全体力を駆使した闘い。武藤敗北という予想外の結末に加え、フィニッシュ技がヒールホールドというサプライズ。私的観点からいくと2000年代……つまりこの10年でNo.1の名勝負だったと思う。

ここで、またみのるは何かを学んだし、「俺はすべての面で武藤敬司に負けない!」という自信も掴んだ。そして、ベルトから離れていた2年8カ月、みのるの基本姿勢は決してブレることはなかった。必然として、時は来たのだろう。武藤不在の全日本マットを自らリードしていこうと決めた瞬間、ベルトがついてきた。そこに同志として船木誠勝という男も飛びこんできた。結果的に、本当の意味で船木を超えていたこともこれで証明された。

さて、もう間もなくワクワクするようなマッチアップも見られる。5・9大阪大会。そこは、アントニオ猪木のリングであるIGFだ。
三冠王者・みのるのパートナーは、新日本の至宝・IWGPジュニア王座を巻く丸藤正道(※前日、新日本のJCBホール大会でタイガ―マスクとの防衛戦を控えているが)。かつて、ノアマットでGHCジュニアタッグ王者に君臨したチームが猪木のお膝元で復活する。しかも、対戦相手は未知の小川直也(パートナーは澤田敦士)ときた。
プロレスを舐め切った知名度抜群のプロレスラー(?)小川に対し、骨の髄までプロレスラーのみのると丸藤は何を見せつけてくれるのか?
結果論として二大メジャーの象徴的ベルトをたまたま巻いているわけだが、この2人が現プロレスシーンを牽引している両雄であることは、ベルトの有無に関わらず誰もが認めるところだろう。

2010.05.04

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