金沢克彦の不定期コラム 第9回 ストロングスタイル

昨年10月1日、アントニオ猪木さんが心不全で逝去。昭和・平成プロレスのスーパーヒーローであり、また政治家としても活躍した英雄の死は社会的ニュースとして世界中に衝撃を与えた。
プロレス・格闘技界の著名人から次々と哀悼の言葉が発信されるなか、鈴木みのるは口を閉じた。
あのときも、そうだった。2007年7月、師匠でありパンクラスの名づけ親でもあるカール・ゴッチさんが亡くなったときも、鈴木はしばらく無言を貫いている。
ある意味、そういうところに鈴木らしさが垣間見える。言葉を発するのは簡単なこと。ただし、偉大な先人たちへの思いが深ければ深いほど、ありきたりな安っぽい言葉では語りたくない。
私が推し量るに、鈴木の胸の内ではそういう感情が渦巻いていたのだと思う。
それ以降、鈴木にとってもうひとつ大きな出来事があった。2011年5月に結成してから11年余、ユニットとして活動してきた鈴木軍の解散である。12・14仙台サンプラザホール大会のリング上で、決断した心境を観客に伝えた。
「2023年、鈴木軍、新しい出発だ! それぞれが新しい旅に出る。今年をもって、鈴木軍、解散します! もう決めたんだ、ありがとう!」
晴れ晴れとした顔だった。しかも、鈴木の口からファンに向けて、「ありがとう!」という感謝の言葉が発せられた。いつ、どんな状況におかれていようとも、決してファンの声を受け入れようとしなかった男である。
ファンが鈴木を応援したい気持ちを示しても、それを拒絶し悪態をついてきた。ファンにもマスコミにも絶対に媚びない。それは鈴木の信条のようなものだった。
では、その信条を曲げたのかといえば、そうとも思えない。おそらく、鈴木軍解散宣言とともに、鈴木自身も解放されたのだろう。自然体で振る舞うこと、思うがままに自分の道を進んでいくこと。その気持ちが、「ありがとう」のひとことに集約されていたのかもしれない。
そして、鈴木軍は12・23後楽園ホール大会のメインイベントで鈴木軍ファイナルとして8人タッグの同門対決を行なった。最後はボスからの「俺たち鈴木軍、イチバ~ン‼」の雄叫びとともに活動に終止符を打った。
ここで見逃せないのは、鈴木自身が「IWGPを獲るために新日本にやって来て、鈴木軍を作った。これからも毎日、IWGPを狙っていくぞ!」と個人の野望もハッキリと口にしたこと。全日本プロレスで三冠ヘビー級ベルトも巻いた、ノアでGHCヘビー級王座にも就いた。
日本マット界を席捲してきたプロレス王が未だ唯一手に入れていないものが、IWGPヘビー(現IWGP世界ヘビー)のベルト。その頂点獲りに向かって今後も突き進んでいくことをあらためて宣言したわけである。
年が明けての1・4東京ドーム大会。アントニオ猪木追悼大会とも銘打たれているビッグマッチで、鈴木は『アントニオ猪木メモリアル6人タッグマッチ』に出場。試合後、厳しい表情でこう言い放った。
「あんまり思い出とかじつは持ってない。なんてたって、デビューして1年も経たないうちにここを辞めてっからな。アントニオ猪木は死んだんだ。もういねえんだ。いつまでもいつまでも猪木猪木猪木猪木、うるせぇよ! でもな、大丈夫だ。俺がまだ生きてる。俺がまだプロレスラーとして生きてる! 以上」
心からの叫びに聞こえた。初めて、猪木に向けて哀悼の意を示したセリフがこれだった。いや、猪木に向けての言葉というよりファンに向けての覚悟の叫びであったのかもしれない。
たしかに鈴木は、デビューから9ヵ月で新日本を退団し、新生UWFへと移籍した。ただし、入門してから練習生時代をふくめて数えるなら2年間、新日本で密度の濃い時間を過ごしている。猪木との思い出をもっていないわけがないだろう。
当時、UWFの一員として新日本のリングに戻ってきた藤原喜明による試合前恒例の藤原教室に弟子入りした。山田恵一、船木優治(現・誠勝)が海外遠征に出たのをキッカケに即座に藤原教室の門をたたいた。
入門時から体が出来上がっていたし、レスリングの下地がある鈴木は本来であれば、もっと早くデビューするはずだった。ところが、デビューまで1年3ヵ月も要したのは、船木とともに例の六本木泥酔事件を起こしてしまったから。
それでも、期待の新人にして先輩よりも態度のでかい異色のルーキーは、1988年6月23日、地元の横浜文化体育館で飯塚孝之(現・高史)とデビュー戦を行なった。
デビュー早々にして、鈴木は次なる行動を開始。アントニオ猪木本人に直訴して、猪木の付人となることに成功したのだ。深夜に道場にやってくることも多かった猪木の付人は大変な仕事でもあるのだが、鈴木にとっては至福の時間だった。身の回りの世話、練習相手、話し相手として猪木を独占できるからだ。
鈴木が新日本プロレス所属選手として、いわゆるヤングライオンとしての9カ月間で残した戦績は、75戦して2勝65敗8分け。
その2勝は直近の先輩である飯塚からあげたもの。新日本ラストマッチはデビュー戦の地でもある横浜文化体育館で、相手も同じ飯塚。腕ひしぎ十字固めで2勝目をあげて、UWFへと移籍している。
ここで、やはりクローズアップしたいのは、その前日の3・15愛知県体育館大会での第1試合。アントニオ猪木との一騎打ちを実現させているのだ。1989年1月、昭和天皇が崩御され、元号が昭和から平成へと変わった直後の出来事だった。
ことの経緯を説明しておくと……2・22両国国技館大会で長州力に完敗を喫した猪木が、「一からの出直し」を期して、2月シリーズ開幕戦から第1試合に出場していた時期の話。
当時、若干20歳で勝ち星にしてもキャリアからいってもイチバン下っ端に位置していた鈴木実(当時)。その鈴木が自ら猪木戦を手繰り寄せたのだ。
スーパースターと前座の一若手選手。こんな奇跡的なマッチメイクがなぜ日の目を見たのか?
第1試合に出場とはいっても、いつものガウンを着用し入場テーマ曲も鳴り響き、対戦相手は外国人選手。リングに登場する猪木の出で立ちはなにも変わることがなかった。
それに意義を唱えたのが、第2試合に出ることになった鈴木。
「第1試合こそ大事なんだって、それに誇りを持ってやってきた。それなのに上から降りてきた猪木さんに押し出されるように第2試合になって、もちろんテーマ曲なんかないしね。『俺は1ですらないのか?』というのが気にいらなくて」
鈴木はその思いを田中秀和(現・田中ケロ)アナウンサーにぶつけてみた。鈴木の理解者でもあった田中リングアナはマッチメイク会議で、鈴木の気持ちを代弁。その結果、猪木vs鈴木の第1試合が愛知県体育館という大舞台で組まれることとなったのだ。
私は横浜文体での鈴木の新日本ラストマッチは取材しているから、よく憶えている。ただし、その前日の猪木vs鈴木のシングル戦は取材していない。
ところが、この試合はYuotubeの動画にアップされている。おそらくファンが撮影したものなのだろう。試合中、「猪木にはウォーミングアップだな!」という周囲の観客の声も入っている。
ウォーミングアップ? とんでもない。猪木は本気で闘っている。いや、鈴木が猪木を本気にさせたと見たほうがいいだろう。
ブルーのタイツ、白のリングシューズに身を固めた鈴木は、とにかくゴツイ。おそらくレスラー人生でもっともウェートがあった時期なのではないか?
対峙しての探り合い。当時、骨法武術館にも通っていた鈴木は、ローキックで猪木を牽制したりもしている。
組み合ってネックロックから首投げを狙うが猪木が堪える。すると鈴木は内掛けで猪木の体勢を崩して強引な首投げを決めてから、張り手を叩き込んだ。
そのとき、鈴木は「立て! クソジジイ!」と猪木に向かって叫んだという。もっとも試合後には、「社長に向かってなんてこと言うんだ!」と、若手のお目付け役でもある星野勘太郎さんにぶん殴られたというのだが……。
その後、スタンドになって鈴木は張り手を2発放った。1発がクリーンヒット。これで猪木の顔色が変わる。顔面狙いのストレートパンチから額へのナックルパート。強烈なナックルを食らって鈴木が崩れる。
その後も、おもしろい展開が満載だった。寝技になると、アキレス腱固めの応酬から猪木は鈴木に梃子の原理で膝固め(シングルレッグロック)を決め足首を絞り上げていく。悶絶する鈴木はなんとかロープへエスケープ。
続いて、猪木は下の体勢からアームバーに入った。これは伝説のアクラム・ペールワン戦でも披露している隠し技。その体勢から脇固めへと移行する。
もはや、ここまで見ただけでも鳥肌ものなのだ。私が知るかぎり、過去、猪木が試合においてこういうレッグロックを披露したことはないし、アームバーから脇固めというパターンも見たことがない。
スパーリングでしか出さない技術を猪木に出させた。そこがポイントなのである。鈴木は強引にジャーマンスープッレクスを仕掛けようとするものの、猪木は体重移動し意地でもそれを許さない。
その一方で鈴木は抜群のタイミングで鮮やかな飛びつき腕十字を極めているのだから、さらに驚かされる。最後は、猪木が強引に弓矢固めを決めると、ミスター高橋レフェリーがゴングを要請した。7分48秒での決着。
そう、試合を裁いていたのもメインレフェリーのミスター高橋であったのだ。
45歳の猪木と20歳の鈴木。スーパースターと若手選手。その両者がリング上では同等の立場で同じ土俵で勝負した。
マットを叩いて悔しがったあと鈴木が両手で握手を求めると、猪木は鈴木の手をあげて健闘を称えた。「手応えあり!」をイチバン感じ取ったのは、じつは猪木だったのではないだろうか?
時代は平成に移行していたが、昭和のスーパースターにして、まだ現役バリバリでトップを張っていた猪木を体感した。そして、いま現在もプロレス界の最前線で活動している。そんなプロレスラーはいま、鈴木みのるしかいない。
鈴木自身が、あの試合をどう位置付けているかはわからない。ただし、あの試合を観るたびに私は勝手に、アレが鈴木みのるの原点になったのではないか。そう感じるのだ。
あの猪木戦があって、UWF、藤原組、パンクラス、プロレス回帰と必然のレスラー人生を歩んできたのではないか? 後付けになってしまうが、そういう思いを禁じ得ないのだ。
ストロングスタイル――。日本プロレスから追放処分を受けた猪木は、1972年3月に新日本プロレスを旗揚げした。所属選手はわずか4人での船出。一方、同年10月に全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場には、日本テレビが付いていた。
馬場vs猪木、全日本vs新日本の対抗図式が出来がる中、猪木はこう口にした。
「馬場さん、全日本プロレスはショーマンスタイル。新日本プロレスはストロングスタイル」
1970年代には、この和製英語であるストロングスタイルが、新日本を象徴するひとつのキャッチコピーとして定着した。だが、時代の変遷とともにストロングスタイルなるコピーは徐々に死語となり、代わって猪木イズムなるフレーズが新日本マットでは主流となってきた。
ふたたび、ストロングスタイルが日の目を浴びるようになったのは、2000年代半ばに中邑真輔がトップグループに昇りつめたころから。デビュー当時から、プロレスと総合格闘技の二刀流という異色のキャリアを積んできた中邑を、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』では、「ストロングスタイル・アーティスト」と呼称したのだ。
そのライバルである棚橋弘至が、むしろ猪木否定派として藤波路線の継承を口にしはじめたことで、両者のカラーは対極となり、イデオロギーのぶつかり合いも見どころとなった。
ストロングスタイルという言葉を復権させたのが中邑なら、それに呼応したのが永田裕志だった。2016年1月、新日本を退団した中邑は4月にWWE(NXT)デビュー。その際のキャッチフレーズとなった「キング・オブ・ストロングスタイル」は、WWEが商標登録している。ストロングスタイルという和製英語が、海をわたり世界に認知されたことを物語っていた。
そこに異を唱えたのが、永田だった。
「いくら中邑がストロングスタイルを標榜したって、対戦相手ができないんじゃないか? ひとりでストロングスタイルの試合はできないだろ」
永田もまたこのキャッチフレーズに敏感となっていた。
カール・ゴッチ、アントニオ猪木という師弟関係から生まれたストロングスタイルというフレーズを、どう定義すべきかは難しい。それとは別に、猪木イズムなる表現方法も存在している。たとえば、小川直也は事あるごとに「猪木イズム」を口に出す。プロレスの基本的ムーブができないままリングを離れた小川にとって、猪木イズムは便利な言葉でもあった。
間違っても、彼の口からストロングスタイルは出てこない。
もうひとり、2000年1月に総合格闘家として『PRIDE』デビューし、快進撃をみせた藤田和之には、「猪木イズム最後の継承者」というキャッチコピーが付けられた。
こちらは、『PRIDE』発であり、藤田本人が猪木イズムを口に出すことはなかった。「猪木さんの名前を出すなんておこがましい」という藤田の謙虚さからくるもの。
同時に、「プロレスは下手くそだから」と自己分析している藤田だから、やはりストロングスタイルとは無縁であることを認識しているのだ。
現代レスラーのなかで、あえて猪木に似ている選手をあげるとすれば柴田勝頼だろう。猪木との接点は少なくとも、彼の父は柴田勝久さん(故人)。新日本旗揚げ当初、もっとも数多く猪木のタッグパートナーを務めた男である。
「俺は生まれたときから新日本プロレス」
過去、柴田はそんな名言も残している。その柴田の姿勢に感化されたのが、若手の成田蓮。2019年9月、柴田に弟子入りを直訴して渡米し、柴田がヘッドコーチを務める新日本L.A道場へ。約3年の修行を積んで帰国した成田のコスチュームが自己主張していた。
『SON OF STRONGSTYLE(=サン・オブ・ストロングスタイル)とTシャツの胸にプリントされていたのだ。
おそらく、それを見た鈴木のなかでは二つの感情が沸き上がったのではないだろうか? 「こいつ、いい度胸しているな」
「お前ごときに、ストロングスタイルの意味がわかってたまるか」
同時に、三つ目の感情もあったのかもしれない。
「アントニオ猪木と闘った俺が、こいつらにそれを教えてやる義務がある」
2月4日、北海きたえーるで成田と組んだ8人タッグマッチの試合後、鈴木は成田に向かってこう言った。諭すように口にした。
「アントニオ猪木だけじゃねーんだよ。藤原喜明のエキスが入り、カール・ゴッチのエキスが入り、前田日明のエキスが入り、髙田延彦のエキスが入り、異種格闘技戦のもな。すべてが俺の中に入っているんだ」
みんな、強さを求めて新日本のリングの上がり、また理想を求めて新日本から巣立った男たち。
あえて、そこに私がひとつ付け加えるとしたら、鈴木は船木誠勝とともに、パンクラスのリングでプロレス界に革命をもたらせた。「何でもありのケンカ格闘技」として、第1回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)が開催されたのは、1993年11月、米国コロラド州デンバー大会だった。
ところが、それに先駆けて、同年9月にパンクラスは旗揚げされている。バーリトゥードを採用した初のプロレス団体だった。つまり、世界で初めて総合格闘技の原型となるルールを採用した格闘技団体がパンクラスであったのだ。
鈴木の性格からいくと、過去に固執しないし囚われることもない。ただし、これは紛れもない事実。パンクラスこそ、のちに一大ムーブメントを巻き起こす総合格闘技の礎となったのである。
2月21日、大阪大会。鈴木は成田、エル・デスペラードとトリオを組んで、NEVER無差別級6人タッグ王座のベルトを奪取。リング上から、成田と観客に向けてついにあの言葉を発した。
「俺からお前にプレゼントがある。俺たち、3人の名前だ。お前が背負うように、俺もこの名前を担ぐのに覚悟がいるんだよ! 俺たちの名前はストロングスタイルだー‼」
バックヤードインタビューで、鈴木はその真意を口にした。
「いいか、35年前だ。俺がこの会社を辞めたのは。この会社の所属でもなけりゃ、契約もしていない。だから俺が名乗ることはできなかった。だけど俺の根底にずっと流れていたのは、あのとき教わった道場にいた“鬼”、そこから生まれてその次に出会った“神様”が俺をここに導いたんだ。俺がいままで追求してきたのは、紛れもなくストロングスタイルだ。誰もこのことに対して文句など言わせない。俺の生きてきた道、誰も口を挟めないはずだ」
鬼は藤原であり、神様はゴッチ。あえて猪木の名前を出さないところも鈴木らしい。アントニオ猪木の名前で商売したくないし、鈴木は鈴木のやり方でアントニオ猪木とも勝負してきた、という自負があるからだろう。
最後に、成田に向けて、いやすべてのプロレスラーに向けてこう言い放った。
「もう一回だけ言っておく。いいか、プロレスラーを名乗るやつら、よく聞いておけ。ストロングスタイル、ファッションで名乗るんじゃねぇ。命懸けろや!」
ストロングスタイルとは、命懸けの覚悟なり。奇しくも、最後の鈴木のメッセージからストロングスタイルの本質が伝わってきた。
アントニオ猪木は天に召された。鈴木みのるは生きている。命懸けの覚悟=ストロングスタイルは継承されていくことだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です