金沢克彦の不定期コラム 第4回 レインメーカー

2月3日、後楽園ホール大会の試合前、いつもマスコミ勢がたむろしている通路に鈴木みのるがやってきた。
当日の昼、同じ会場でZERO1のTVマッチ(サムライTV)の解説があったから、私は珍しく早めにホールに戻っていた。
周囲に人が多いとき、みのるはあまり話しかけてこない。さすがに共同インタビュー(囲み取材)で、からんできたり恫喝されたりすることはないものの、試合後の花道は要注意。鈴木軍の退場時に花道後方あたりに不用意に立っていようものなら、視線を逸らせてもダメ。気付かないふり作戦も、カーテンに半身を隠す作戦も通用しない。
不意にみのるに胸ぐらを掴まれメンチを切られる。明らかに観客の大多数から目の届く範囲だから、困りもの。とりあえず、無言でにらみ返すしかない。
これだけで済めばいいのだが、ボスに続けとばかり、なぜかTAKAみちのくが私の太腿に蹴りを見舞っていく。さらに、調子に乗ったタイチまで蹴ってくる。
みのるは仕方がない。私のオブジェ作戦(!?)を見逃してくれないところは、タイガー・ジェット・シンばりなのだが、彼の視界に入ってしまったことを悔やむしかない。まあ、TAKAも百歩譲って許そう。かれこれ20年弱、旧知の仲でもあるからだ。
ただし、タイチはNGだろう。いくらなんでも調子に乗りすぎ。虎の威を借りるなんとやら……ボスの威を借りるタイチ。
「タイチ、おまえはダメだ!」。意気揚々と階段を下りていくタイチの背中に向かって、私は思わず釘を差してしまう。
会場でまったく接触がないこともあれば、こんな不意打ちでの接触もある。まあ、胸ぐらを掴んでのひと睨みもみのる流の挨拶代わりというところか。
そして、ごく稀にけっこう中身のある雑談を交わすこともある。それがたまたま、まだマスコミが数名しか集まっていない2月3日だった。

「どう? 本(鈴木みのるの独り言100選)は売れてる?」
「ああ、初動がよかったらしいから結構いい数字だって聞いてるよ」
「そういえば、今年は……」
「そう、25周年だよ、俺も」
「デビュー20周年記念興行をここでやってからもう5年かあ……早いねえ。25周年記念で興行はやらないの?」
「45(歳)になって、すぐ25周年になる。最初は考えていたんだけど、興行はやらないことにした。なんか別の形で商品展開とかはしていくかもしれないけどね」
「なんで試合はやめたの? お客さん入るよ、間違いなく」
「いや、だからカードが思い浮かばない。25周年の記念だからコレだ!というカードや対戦相手が出てこないんだよ」
「たしかに20周年で存分に見せてしまったもんなあ。モーリス(・スミス)とやって、高山善廣とガチガチの試合やって、じゃあ、他に誰かいるの?って」
「うん。だから思い浮かばないものを無理に作ってもしょうがない、思い浮かばないってことは、やる必要がないってことなんだよ」
なるほど。この感性もみのる流だろう。

2008年6月17日、後楽園ホール。40歳のバースデイに開催した20周年記念興行。メインイベントは高山とのゴッツゴツの一騎打ち。一方で、まさかのモーリス・スミスを招聘して、5分1ラウンドのエキジビションマッチも敢行している。
1980年代、世界最強のキックボクサーと称され、90年代、2000年代に入っても総合格闘技のリングで活躍したモーリス。初対決でモーリスによって天狗の鼻をへし折られたみのるは、それをキッカケに本物の強さを追い求めるようになった。その思いがパンクラス設立へとつながっていったし、「打倒!モーリス・スミス」は鈴木みのるという人間が生きていくうえで、最高のモチベーションになりえた。
エキジビションとはいえ、14年ぶりに宿敵とリング上での再会。みのるはここ一番でしか着用しない勝負タイツ、白のショートタイツで臨んでいる。
前年7月、自分が保持する三冠ヘビー級王座を賭け、武藤敬司と初めてシングルで相まみえて以来の白タイツだった。
つまり、今年の25周年記念を迎えるにあたり、今のところ白タイツを着用するに相応しい男は見当たらないということ。

少し前の話になるが、プロレス界で独自の価値観を追い求める中邑真輔が、鈴木みのるというレスラーをこう評していた。
「鈴木みのるという人はガツガツしていますね。ヘタしたらヤングライオンよりガツガツしているし貪欲だと思いますよ」
真輔もまた我が道を突き進む男。異端児は異端児を知る? 真輔らしい表現だった。この「ガツガツしている」にはいろいろな意味が込められていると思う。
失うものもなければ、守るものもないから、針の穴ほどのチャンスでも見つけたら、前へ前へと食らいついていくのが若手であるヤングライオンの特権。貪欲でなければ、上には行けないし、出世の糸口は見えてこない。
みのるにはキャリア25年にして、同じかそれ以上の貪欲さが垣間見える。失うものも大きいし、守るものもある。それなのに、彼の貪欲さは衰えるどころか増すばかりという印象。そこには、確固たる信念の裏打ちがあるから。

8年前、天龍源一郎の一言を聞いて目からウロコを感じた。「俺らはフリーとして生き残っていかなければいけない……」とみのるが言いかけたとき、天龍はこう釘をさした。
「いや、鈴木選手、生き残っていくんじゃない。生き抜くんだよ! 生き抜いていかなきゃいけない」
この一言がみのるに与えた影響は大きい。ほんの少しの表現の違いのようでありながら、じつは大きな違いが潜んでいる。
「生き残る」には、失うことを恐れる保守の姿勢も感じられるが、「生き抜く」には周囲の評価に左右されず信念をもって突き進む……つまり失ったら、また取り戻せばいいという姿勢と感覚、心構えを感じるのだ。

貪欲な鈴木みのるは2年前、新日本マットに単身再上陸を果たし、これまた生き抜こうと必死のTAKAみちのく、タイチを子分に従え、さらにランス・アーチャー、デイビーボーイ・スミスJrの大型外国人2強を駒に加え、鈴木軍を結成。いつの間にか、鈴木軍は強大な一大勢力に成り上がっていった。
リング上だけではない。試合前、試合後と時間を見つけては会場入り口の売店に立って、鈴木軍のグッズ販売を行なう。強制されているわけでもないし義務感からでもない。それだってリング上と同様。自分たちの食いぶちは自分で確保する。生き抜くために、売店に立つ。
例えば、プライベートでの鈴木みのるはファンの記念撮影やサインのリクエストには一切応じない。その代わり、グッズ購入者にはきちんとサインを入れる。そこで、鈴木みのるとしてのケジメというか、線引きをしている。生き抜くことと、価値観を保つことのバランス感覚にも長けているのだ。

話を戻そう。2・3後楽園ホール。この日は、鈴木軍vsCHAOSの全面対抗戦の第2ラウンド(6人タッグマッチ)が組まれていた。やはり注目は未知なる遭遇となる、みのるvsオカダ・カズチカにある。
「こっちは25周年で、向こうは25歳か? 楽しいねえ(笑)」
「フン、そんなのたまたまじゃねーか」
そこで私がパンフレットを取り出して確認しながら、さらに突っ込む。
「えー、鈴木みのるのデビューは1988年6月23日で、オカダの誕生日は1987年11月8日だね。だけど、もともと鈴木みのるのデビュー戦は87年11月19日の予定だったから、オカダの誕生日とほとんど同じだったわけだよ!」
「そんな話もち出してどうすんだよ? たまたまじゃんか。ただの数字だよ。これだから古い人間、ジジイは困るんだよな(苦笑)」
そう、古い人間は数字にこだわるし、なんでもかんでも因縁めいたものに感じてしまう。念のため、前出の話に解説を加えておくと、みのるのデビュー戦は、新日本とUWFが業務提携していた時代、UWFが主催興行を開催した1987年11月19日、後楽園ホール大会で内定していた。
もっと分かりやすく言うなら、あの『前田、長州顔面蹴撃事件』が勃発した興行である。
ところが、その直前に新弟子の鈴木みのるが問題を起こした。船木優治(誠勝)らとともに六本木で泥酔し路上で大乱闘。警察の御厄介となり、会社から謹慎処分を食ってしまったのだ。
その話だって、今になって思えば奇跡的なこと。本当なら、あのプロレス史に残る大事件の日がデビュー戦の日となるはずだったのだから。

私の勝手な因縁作りや妄想はともかくとして、みのるvsオカダ闘争にはあっという間に火が点いた。当日、みのるがゴッチ式パイルドライバーで外道を沈め、鈴木軍が勝ち誇る。これに対して、沈着冷静がウリのレインメーカーが吠えた。
「広島のカード、決まってないよな? シングルマッチでやろうぜ! 俺とアンタのレベルの違い見せつけてやるよ!!」
これにて、2・10広島で初の一騎打ちが決定。メインのIWGPヘビー級選手権(棚橋弘至vsカール・アンダーソン)以上の刺激的カードがラインナップされた。
この一戦、私は現地に取材には行っていないので、PPV中継で観戦している。お互いにすべてを出し切ってはいないように映った。出し切る前にみのるが勝負をつけた――そんなふうに見えた。
むしろ試合そのものより、試合後の勝者・みのるのコメントに響くもの、説得力を感じた。
「おまえ、25歳だってな? キラキラキラキラ体にまとって、カッコいいな。素直に言うよ。25歳のときの俺よりプロレス上手いかもしれない。キラキラしてるもんな? だけどな、25歳のときの俺はギラギラしてたぞ! 小僧、プロレス舐めんな。誰よりも高いドロップキックやる、誰よりも歓声を受ける、それがプロレスか? 違うよ。誰よりも強いのがプロレスだ。どんなに痛くても立ち上がるのがプロレスだ。これが本音だ。アイツは一生、俺には勝てない」

25歳の鈴木みのる。確かにギラギラしていた。1993年9月、パンクラスを旗揚げしたとき。第1回『UFC』に先駆けて、世界で一番早く総合格闘技ルールをプロレスのリングに導入した。翌94年5月、生涯の宿敵であるモーリス・スミスから3度目の対戦にして勝利をもぎとった。
プロレス界に革命をもたらし、明日をも知れぬリングに命を賭けていた。その自負がある。だからこそ、こんなセリフも付随して出てきた。
「おまえら、キャリアって何か分かるか? キャリアは経験だ、キャリアとは知識だ。この意味わかるか? 殺されそうになったことねえやつが、もし殺されそうになったらって、防災のために練習したってできるか、そのときに? それがあるやつとないやつの違いだ。これは俺がプロレスを辞めない限り、抜かれることはない」
レインメーカーは会社が総力を結集して作り上げた“張子の虎”とでも言いたげだった。
ただし、レインメーカーはやはりタダものではなかった。3月に開催された『NEW JAPAN CUP』で一夜にして矢野通、後藤洋央紀を連破して優勝。IWGPヘビー級王座挑戦権を手に入れると、4・7両国大会の大一番で絶対王者と化していた棚橋をファール。再び玉座に君臨した。
次の瞬間、すぐにリベンジへと動く。王者が自ら挑戦者・鈴木みのるを指名した。
「鈴木さん、アナタにはこれから僕が作る歴史のほ~んの小さな踏み台になっていただきます」
「おまえが降らす金の雨は偽札じゃねえか」
舞台は必然の結果として整った。そこに世代闘争という意味合いはまったく存在しない。いま現在の最強を廻っての対決。
その証拠に、この1年余で3度もIWGPに挑戦しているのは、オカダとみのるの2人だけ。ただし、オカダは2度結果を出しているが、みのるは過去2度(棚橋戦)とも敗れている。
その一方で不思議なのは、結果こそ出ていなくても、みのるが挑むIWGP戦にはつねに特別な意味合いを感じること。そこはやはりみのるが発するメッセージがスパイスとなり、自然とテーマになっていくからなのだ。
奇しくも、2・3後楽園ホール大会で私がみのるに言ったセリフさえも、周囲はひとつのテーマとして取り上げ始めた。キャリア25年と25歳のチャンピオン。周囲が煽れば、みのるだってほんの少しは乗っかってみせる。
「こっちはあいつの生きてきた人生の分、まるまるプロレスやってっから。まあ、奇跡の数字の組み合わせだよ(笑)」

世代闘争ではない、今を賭けた25歳vs25年。5・3福岡国際センター。6800人、超満員の観客で埋まった『レスリングどんたく2013』のメインイベント。
腕殺し、スリーパー。スリーパー、腕殺し。まるで鈴木みのるによるなぶり殺しか? じわじわと真綿で絞めつける様にオカダを追い込んでいく。レインメーカー、陥落寸前……。
25年分のキャリアが25歳に襲いかかる。
そこで、みのるに唯一の誤算。25年の傷痕がうずき出す。17年前に負った頸椎ヘルニア。
一度は引退を覚悟させた古傷が痛みだす。
キャリアは肉体を消耗させる。それもまた事実なのだ。と、同時に「どんなに痛くても立ち上がるのがプロレスだ」という、もうひとつの見せ場をみのるは見せる必要に迫られた。
試合は30分を超えた。事実上、止めとなった「スペシャルな技」は、オカダによるゴッチ式ツームストントン・パイルドライバー。さらに、追い打ちのレインメーカー。
25年分の痛み、苦しみの洗礼を受けながら、25歳のレインメーカーが雪辱を果たした。
試合後の鈴木みのる。「あんな小僧の技なんか効くわけねぇーだろ!」
思いっ切り強がりと負け惜しみと大人げなさを全開にしながら、フラつく足取りで控室へ消えていった。強がり、負け惜しみ、大人げなさ……これだって、みのるの最高の魅力。
なぜなら、負けを認めた時点で終わりなのだから。ずっと強さを追い求めてきたプロレスラーが負けを認めたら、その時点で終わり。
まだシリーズは続く。また明日から強さを追い求める闘いが始まるのだ。

その8日後、みのるは日本武道館のリングに立っていた。小橋建太の引退試合。この業界で唯一の同期だった男がリングを去る。その大会のセミファイナル(鈴木みのる&丸藤正道vs高山善廣&大森隆男)を任された。
絶対に交わることのないと思われていた小橋とは、2005年1月9日、ノアの日本武道館大会で対戦した。小橋の保持するGHCヘビー級選手権に挑戦し剛腕を食らって敗れた。
試合後、みのるはこう言った。「おもしろいもの、見~つけた!」
同期のスーパースター、みのる曰く「マット界で唯一のベビーフェイス」は最高の幕切れをもってリングに別れを告げた。
だからこそ、みのるはまだまだ闘い続ける。マット界一、いや“世界一性格の悪い男”として、業界のトップに居続けなくてはならない。今を生き抜かなければいけないのだ。

2013.05.15

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