金沢克彦の不定期コラム バックナンバー

金沢克彦(かなざわ・かつひこ)Profile

1961年12月13日生まれ。青山学院大学経営学部卒業。86年5月、新大阪新聞社『週刊ファイト』記者となる。
89年11月、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ移籍。99年1月〜04年10月まで編集長を務める。
05年11月に退社しフリーライターとなる。
テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の解説を務めるなど口も達者。通称GK(=ゴング金沢)。
著書に、鈴木みのるとの共著『風になれ』(東邦出版)の他、『力説』(エンターブレイン)、『子殺し』(宝島社)。

こちらのコラムは不定期で更新いたします。

第4回 レインメーカー

2月3日、後楽園ホール大会の試合前、いつもマスコミ勢がたむろしている通路に鈴木みのるがやってきた。
当日の昼、同じ会場でZERO1のTVマッチ(サムライTV)の解説があったから、私は珍しく早めにホールに戻っていた。
周囲に人が多いとき、みのるはあまり話しかけてこない。さすがに共同インタビュー(囲み取材)で、からんできたり恫喝されたりすることはないものの、試合後の花道は要注意。鈴木軍の退場時に花道後方あたりに不用意に立っていようものなら、視線を逸らせてもダメ。気付かないふり作戦も、カーテンに半身を隠す作戦も通用しない。
不意にみのるに胸ぐらを掴まれメンチを切られる。明らかに観客の大多数から目の届く範囲だから、困りもの。とりあえず、無言でにらみ返すしかない。
これだけで済めばいいのだが、ボスに続けとばかり、なぜかTAKAみちのくが私の太腿に蹴りを見舞っていく。さらに、調子に乗ったタイチまで蹴ってくる。
みのるは仕方がない。私のオブジェ作戦(!?)を見逃してくれないところは、タイガー・ジェット・シンばりなのだが、彼の視界に入ってしまったことを悔やむしかない。まあ、TAKAも百歩譲って許そう。かれこれ20年弱、旧知の仲でもあるからだ。
ただし、タイチはNGだろう。いくらなんでも調子に乗りすぎ。虎の威を借りるなんとやら……ボスの威を借りるタイチ。
「タイチ、おまえはダメだ!」。意気揚々と階段を下りていくタイチの背中に向かって、私は思わず釘を差してしまう。
会場でまったく接触がないこともあれば、こんな不意打ちでの接触もある。まあ、胸ぐらを掴んでのひと睨みもみのる流の挨拶代わりというところか。
そして、ごく稀にけっこう中身のある雑談を交わすこともある。それがたまたま、まだマスコミが数名しか集まっていない2月3日だった。

「どう? 本(鈴木みのるの独り言100選)は売れてる?」
「ああ、初動がよかったらしいから結構いい数字だって聞いてるよ」
「そういえば、今年は……」
「そう、25周年だよ、俺も」
「デビュー20周年記念興行をここでやってからもう5年かあ……早いねえ。25周年記念で興行はやらないの?」
「45(歳)になって、すぐ25周年になる。最初は考えていたんだけど、興行はやらないことにした。なんか別の形で商品展開とかはしていくかもしれないけどね」
「なんで試合はやめたの? お客さん入るよ、間違いなく」
「いや、だからカードが思い浮かばない。25周年の記念だからコレだ!というカードや対戦相手が出てこないんだよ」
「たしかに20周年で存分に見せてしまったもんなあ。モーリス(・スミス)とやって、高山善廣とガチガチの試合やって、じゃあ、他に誰かいるの?って」
「うん。だから思い浮かばないものを無理に作ってもしょうがない、思い浮かばないってことは、やる必要がないってことなんだよ」
なるほど。この感性もみのる流だろう。

2008年6月17日、後楽園ホール。40歳のバースデイに開催した20周年記念興行。メインイベントは高山とのゴッツゴツの一騎打ち。一方で、まさかのモーリス・スミスを招聘して、5分1ラウンドのエキジビションマッチも敢行している。
1980年代、世界最強のキックボクサーと称され、90年代、2000年代に入っても総合格闘技のリングで活躍したモーリス。初対決でモーリスによって天狗の鼻をへし折られたみのるは、それをキッカケに本物の強さを追い求めるようになった。その思いがパンクラス設立へとつながっていったし、「打倒!モーリス・スミス」は鈴木みのるという人間が生きていくうえで、最高のモチベーションになりえた。
エキジビションとはいえ、14年ぶりに宿敵とリング上での再会。みのるはここ一番でしか着用しない勝負タイツ、白のショートタイツで臨んでいる。
前年7月、自分が保持する三冠ヘビー級王座を賭け、武藤敬司と初めてシングルで相まみえて以来の白タイツだった。
つまり、今年の25周年記念を迎えるにあたり、今のところ白タイツを着用するに相応しい男は見当たらないということ。

少し前の話になるが、プロレス界で独自の価値観を追い求める中邑真輔が、鈴木みのるというレスラーをこう評していた。
「鈴木みのるという人はガツガツしていますね。ヘタしたらヤングライオンよりガツガツしているし貪欲だと思いますよ」
真輔もまた我が道を突き進む男。異端児は異端児を知る? 真輔らしい表現だった。この「ガツガツしている」にはいろいろな意味が込められていると思う。
失うものもなければ、守るものもないから、針の穴ほどのチャンスでも見つけたら、前へ前へと食らいついていくのが若手であるヤングライオンの特権。貪欲でなければ、上には行けないし、出世の糸口は見えてこない。
みのるにはキャリア25年にして、同じかそれ以上の貪欲さが垣間見える。失うものも大きいし、守るものもある。それなのに、彼の貪欲さは衰えるどころか増すばかりという印象。そこには、確固たる信念の裏打ちがあるから。

8年前、天龍源一郎の一言を聞いて目からウロコを感じた。「俺らはフリーとして生き残っていかなければいけない……」とみのるが言いかけたとき、天龍はこう釘をさした。
「いや、鈴木選手、生き残っていくんじゃない。生き抜くんだよ! 生き抜いていかなきゃいけない」
この一言がみのるに与えた影響は大きい。ほんの少しの表現の違いのようでありながら、じつは大きな違いが潜んでいる。
「生き残る」には、失うことを恐れる保守の姿勢も感じられるが、「生き抜く」には周囲の評価に左右されず信念をもって突き進む……つまり失ったら、また取り戻せばいいという姿勢と感覚、心構えを感じるのだ。

貪欲な鈴木みのるは2年前、新日本マットに単身再上陸を果たし、これまた生き抜こうと必死のTAKAみちのく、タイチを子分に従え、さらにランス・アーチャー、デイビーボーイ・スミスJrの大型外国人2強を駒に加え、鈴木軍を結成。いつの間にか、鈴木軍は強大な一大勢力に成り上がっていった。
リング上だけではない。試合前、試合後と時間を見つけては会場入り口の売店に立って、鈴木軍のグッズ販売を行なう。強制されているわけでもないし義務感からでもない。それだってリング上と同様。自分たちの食いぶちは自分で確保する。生き抜くために、売店に立つ。
例えば、プライベートでの鈴木みのるはファンの記念撮影やサインのリクエストには一切応じない。その代わり、グッズ購入者にはきちんとサインを入れる。そこで、鈴木みのるとしてのケジメというか、線引きをしている。生き抜くことと、価値観を保つことのバランス感覚にも長けているのだ。

話を戻そう。2・3後楽園ホール。この日は、鈴木軍vsCHAOSの全面対抗戦の第2ラウンド(6人タッグマッチ)が組まれていた。やはり注目は未知なる遭遇となる、みのるvsオカダ・カズチカにある。
「こっちは25周年で、向こうは25歳か? 楽しいねえ(笑)」
「フン、そんなのたまたまじゃねーか」
そこで私がパンフレットを取り出して確認しながら、さらに突っ込む。
「えー、鈴木みのるのデビューは1988年6月23日で、オカダの誕生日は1987年11月8日だね。だけど、もともと鈴木みのるのデビュー戦は87年11月19日の予定だったから、オカダの誕生日とほとんど同じだったわけだよ!」
「そんな話もち出してどうすんだよ? たまたまじゃんか。ただの数字だよ。これだから古い人間、ジジイは困るんだよな(苦笑)」
そう、古い人間は数字にこだわるし、なんでもかんでも因縁めいたものに感じてしまう。念のため、前出の話に解説を加えておくと、みのるのデビュー戦は、新日本とUWFが業務提携していた時代、UWFが主催興行を開催した1987年11月19日、後楽園ホール大会で内定していた。
もっと分かりやすく言うなら、あの『前田、長州顔面蹴撃事件』が勃発した興行である。
ところが、その直前に新弟子の鈴木みのるが問題を起こした。船木優治(誠勝)らとともに六本木で泥酔し路上で大乱闘。警察の御厄介となり、会社から謹慎処分を食ってしまったのだ。
その話だって、今になって思えば奇跡的なこと。本当なら、あのプロレス史に残る大事件の日がデビュー戦の日となるはずだったのだから。

私の勝手な因縁作りや妄想はともかくとして、みのるvsオカダ闘争にはあっという間に火が点いた。当日、みのるがゴッチ式パイルドライバーで外道を沈め、鈴木軍が勝ち誇る。これに対して、沈着冷静がウリのレインメーカーが吠えた。
「広島のカード、決まってないよな? シングルマッチでやろうぜ! 俺とアンタのレベルの違い見せつけてやるよ!!」
これにて、2・10広島で初の一騎打ちが決定。メインのIWGPヘビー級選手権(棚橋弘至vsカール・アンダーソン)以上の刺激的カードがラインナップされた。
この一戦、私は現地に取材には行っていないので、PPV中継で観戦している。お互いにすべてを出し切ってはいないように映った。出し切る前にみのるが勝負をつけた――そんなふうに見えた。
むしろ試合そのものより、試合後の勝者・みのるのコメントに響くもの、説得力を感じた。
「おまえ、25歳だってな? キラキラキラキラ体にまとって、カッコいいな。素直に言うよ。25歳のときの俺よりプロレス上手いかもしれない。キラキラしてるもんな? だけどな、25歳のときの俺はギラギラしてたぞ! 小僧、プロレス舐めんな。誰よりも高いドロップキックやる、誰よりも歓声を受ける、それがプロレスか? 違うよ。誰よりも強いのがプロレスだ。どんなに痛くても立ち上がるのがプロレスだ。これが本音だ。アイツは一生、俺には勝てない」

25歳の鈴木みのる。確かにギラギラしていた。1993年9月、パンクラスを旗揚げしたとき。第1回『UFC』に先駆けて、世界で一番早く総合格闘技ルールをプロレスのリングに導入した。翌94年5月、生涯の宿敵であるモーリス・スミスから3度目の対戦にして勝利をもぎとった。
プロレス界に革命をもたらし、明日をも知れぬリングに命を賭けていた。その自負がある。だからこそ、こんなセリフも付随して出てきた。
「おまえら、キャリアって何か分かるか? キャリアは経験だ、キャリアとは知識だ。この意味わかるか? 殺されそうになったことねえやつが、もし殺されそうになったらって、防災のために練習したってできるか、そのときに? それがあるやつとないやつの違いだ。これは俺がプロレスを辞めない限り、抜かれることはない」
レインメーカーは会社が総力を結集して作り上げた“張子の虎”とでも言いたげだった。
ただし、レインメーカーはやはりタダものではなかった。3月に開催された『NEW JAPAN CUP』で一夜にして矢野通、後藤洋央紀を連破して優勝。IWGPヘビー級王座挑戦権を手に入れると、4・7両国大会の大一番で絶対王者と化していた棚橋をファール。再び玉座に君臨した。
次の瞬間、すぐにリベンジへと動く。王者が自ら挑戦者・鈴木みのるを指名した。
「鈴木さん、アナタにはこれから僕が作る歴史のほ~んの小さな踏み台になっていただきます」
「おまえが降らす金の雨は偽札じゃねえか」
舞台は必然の結果として整った。そこに世代闘争という意味合いはまったく存在しない。いま現在の最強を廻っての対決。
その証拠に、この1年余で3度もIWGPに挑戦しているのは、オカダとみのるの2人だけ。ただし、オカダは2度結果を出しているが、みのるは過去2度(棚橋戦)とも敗れている。
その一方で不思議なのは、結果こそ出ていなくても、みのるが挑むIWGP戦にはつねに特別な意味合いを感じること。そこはやはりみのるが発するメッセージがスパイスとなり、自然とテーマになっていくからなのだ。
奇しくも、2・3後楽園ホール大会で私がみのるに言ったセリフさえも、周囲はひとつのテーマとして取り上げ始めた。キャリア25年と25歳のチャンピオン。周囲が煽れば、みのるだってほんの少しは乗っかってみせる。
「こっちはあいつの生きてきた人生の分、まるまるプロレスやってっから。まあ、奇跡の数字の組み合わせだよ(笑)」

世代闘争ではない、今を賭けた25歳vs25年。5・3福岡国際センター。6800人、超満員の観客で埋まった『レスリングどんたく2013』のメインイベント。
腕殺し、スリーパー。スリーパー、腕殺し。まるで鈴木みのるによるなぶり殺しか? じわじわと真綿で絞めつける様にオカダを追い込んでいく。レインメーカー、陥落寸前……。
25年分のキャリアが25歳に襲いかかる。
そこで、みのるに唯一の誤算。25年の傷痕がうずき出す。17年前に負った頸椎ヘルニア。
一度は引退を覚悟させた古傷が痛みだす。
キャリアは肉体を消耗させる。それもまた事実なのだ。と、同時に「どんなに痛くても立ち上がるのがプロレスだ」という、もうひとつの見せ場をみのるは見せる必要に迫られた。
試合は30分を超えた。事実上、止めとなった「スペシャルな技」は、オカダによるゴッチ式ツームストントン・パイルドライバー。さらに、追い打ちのレインメーカー。
25年分の痛み、苦しみの洗礼を受けながら、25歳のレインメーカーが雪辱を果たした。
試合後の鈴木みのる。「あんな小僧の技なんか効くわけねぇーだろ!」
思いっ切り強がりと負け惜しみと大人げなさを全開にしながら、フラつく足取りで控室へ消えていった。強がり、負け惜しみ、大人げなさ……これだって、みのるの最高の魅力。
なぜなら、負けを認めた時点で終わりなのだから。ずっと強さを追い求めてきたプロレスラーが負けを認めたら、その時点で終わり。
まだシリーズは続く。また明日から強さを追い求める闘いが始まるのだ。

その8日後、みのるは日本武道館のリングに立っていた。小橋建太の引退試合。この業界で唯一の同期だった男がリングを去る。その大会のセミファイナル(鈴木みのる&丸藤正道vs高山善廣&大森隆男)を任された。
絶対に交わることのないと思われていた小橋とは、2005年1月9日、ノアの日本武道館大会で対戦した。小橋の保持するGHCヘビー級選手権に挑戦し剛腕を食らって敗れた。
試合後、みのるはこう言った。「おもしろいもの、見~つけた!」
同期のスーパースター、みのる曰く「マット界で唯一のベビーフェイス」は最高の幕切れをもってリングに別れを告げた。
だからこそ、みのるはまだまだ闘い続ける。マット界一、いや“世界一性格の悪い男”として、業界のトップに居続けなくてはならない。今を生き抜かなければいけないのだ。

2013.05.15

第3回 花道

今年の1・4東京ドーム大会に火が点いたのは、あの人が入場ゲートに現れた瞬間だった。
プロレスラーではない。もちろん、テレビ朝日の解説についていた私は制作打ち合せの段階で知っていた。だけど、ファンには知らされていない。サプライズの演出だった。
第4試合。テッパン中のテッパンと言っていい鈴木みのるvs永田裕志戦。両者が対峙するだけで十分に雰囲気は出来上がるだろう。ところが、それ以前にドームの空間は完全に出来上がってしまった。

いきなりギターのソロ演奏。いったい何が始まるのか……まだファンには理解できない。
続いて、張りのあるハスキーボイスが響きわたった。中村あゆみだ。我々の年代からいくと、本格派のJ‐POPシンガ―でありながらアイドルでもあった。
大ヒット曲『翼の折れたエンジェル』を知らない人はまずいない。
いまどきの若者にとっては、鈴木みのるの入場テーマ『風になれ』を歌っているミュージシャンといった認識だろうか。どちらにしろ圧巻だった。

そういえば、5年前の後楽園ホールでも、あゆみさんはリング上で『風になれ』を歌った。
2008年6月17日、みのるの40歳の誕生日に開催された『鈴木みのるデビュー20周年記念興行』のメインイベント。
カードは、鈴木みのるVs高山善廣。あゆみさんは生歌でみのるを迎え入れるとともに、リングアナウンサーまでこなしている。そのとき、私はサムライTVの放送席で解説を務めていた。当初、あゆみさんは試合終了後、放送席に着く予定だった。
翌月発売の初のカバーアルバム『VOICE』のプロモーションを兼ねての話。だが、直前になっての予定変更。あゆみさんは来られないという。
じつは、前日から体調を崩しており39度の高熱に見舞われたまま会場入りし、本番に臨んだのだという。試合を見届けたらすぐに帰宅したいという話だった。あの歌声と笑顔からはとても信じられなかった。
プロだなあ。それしか言葉が浮かんでこなかった。

あれから5年、鈴木みのるは今年25周年を迎え、45歳になる。舞台は後楽園ホールから、3万人近い観客を飲み込んだ東京ドームへとスケールアップ。中村あゆみオンステージ。ウアッーという驚きの声から手拍子が巻き起こり、サビの部分では「かっぜになれー!!」の大合唱。
みのるの好きな二番もフルに歌われた。
「輝きの中を駈けてゆけー」
このフレーズと同時に、みのるはリングへと続く花道を速足で進んだ。中村あゆみと3万人の「かっぜになれー」の声と同時にリングイン。いつもなら戦争に向かうような眼をしているみのるなのに、リングインしたときの表情には爽やかな笑みが浮かんでいた。
またひとつ、夢が現実となった。

遡ること30年前、ラジオのオールナイトニッポンを聴いていて、『翼の折れたエンジェル』が耳に飛び込んできた。早速、みのる少年はレコード屋に向かった。曲のタイトルが分からないから「こういう歌なんだけど……」と店員の前で歌ってみせた。それが最初の出会い。
入門したての新弟子時代、新日本プロレス道場で個人練習をしているときは、ずっとあゆみさんのテープをラジカセでかけていた。
「なんだよ、こんなのかけやがって」
そう先輩に言われると、生意気な新弟子はいつもこう答えていた。
「いつか僕はこの人にテーマソングを作ってもらうんです!」

いつか、は本当に訪れた。1995年9月1日、日本武道館。みのるは第二代キング・オブ・パンクラシストとして、バス・ルッテンを相手に初防衛戦に臨んだ。その日、初めて『風になれ』をテーマ曲に入場している。結果はチョークスリーパーで敗れ、王座転落。そこから連戦連敗のスタート。
「もう使うのやめなよ、縁起が悪いんだよ。違うの作ってあげるから」
堪りかねたあゆみさんにはそう言われた。だけど、それだけはできない。なぜなら、あの曲の歌詞は鈴木みのるの思いそのままだから。もう、『風になれ』とは一心同体だったからだ。
パンクラス時代の晩年には加齢臭の漂う自分も感じた。見えないはずのゴールを勝手に定めたこともあった。
気が付くとゴールを意識したときから、もう10年が経っている。もちろん、どこにもゴールなんて見えやしない。みのるには“今”と“明日”しか見えていない。

2013年の1・4東京ドーム。みのるは最高の花道を歩いていた。
ここに至るまでの1年半、確かに葛藤もあった。それは2011年6月、5年間にわたり主戦場とした全日本マットを離れ、新日本プロレスに再上陸した瞬間から始まった闘い。
8月の『G1クライマックス』が終わり、都内のスタジオでG1クライマックス3D映画試写会に参加したあと、みのると2人で食事をした。
「新日本から5年離れてみて分かったことがあるんだよ。全日本ではトップをとっていた自負があるし、周りにも『武藤敬司と鈴木みのるは特別だから』という目で見られていたと思うんだ。だけど、それは新日本のファンには関係ないことなんだって。まだ首都圏の興行ならいいんだよ、ブーイングとかファンの反応が返ってくる。でも、地方だと俺が入場してもうんともすんとも反応がないこともあるんだよね。あ、これはもう忘れられているなって。ファンも入れ替わっているし、想像したものより厳しいなって。だから、考えかたを変えたんだよね。過去に新日本でやってきたことは全部なしにしよう、これはもうゼロから鈴木みのるを作っていこうってね」
決してネガティブな言葉ではない。現実を受け止めて分析した結果を踏まえ、新たな鈴木みのるを作る作業を楽しんでいこうという気概を感じた。
みのるの視界に映るのは、同世代の永田、中西、天山、小島ではなく、現在進行形の棚橋であり中邑、後藤、真壁といった面々。
「新日本を侵略しに来た!」
そう言って大見栄を切ったからには、標的は現在進行形の男たちなのだ。明けて2012年のみのるは、新日本マットの真ん中に躍り出ていた。
1・4東京ドーム。メインイベントでIWGP王者の棚橋弘至と対戦。棚橋にはIWGP防衛レコードのⅤ11が懸かっていた。最高のシチュエ―ションではないか?
新日本マットにカムバックして半年で答えを出した。
プロレス界最大のイベント、1・4ドームでメインの花道を歩いた。試合には敗れたものの、本来まったくタイプが違うと思われていた棚橋との間に、その後もドラマが生まれ、ストーリーを紡いでいくことになる。

8月8日、G1クライマックス。地元・横浜文化体育館での公式戦。棚橋から完璧なピンフォール勝ちを奪った。この実績がものをいって、10・8両国国技館で棚橋と3度目の一騎打ち。みのるはIWGPベルトより重いものを懸けていた。
「今のプロレスはサーカスだ。今のプロレスは曲芸だ。そう言っている昔のやつら、みんな黙らせてやる」
深く考えたわけではない。試合に向けて、タイトルマッチへ向けて、ひとつテーマを自分に課そうと思ったのだ。自分を奮い立たせると同時に、タイトルマッチへの煽りになればいいだろうという考えだった。だが、つねに時代と空気を読んでいる“みのる発言”は、本人の想像以上に反響を呼んだ。
「俺は今のプロレス界に生きている。今のプロレスを否定されるということは、自分を否定されることになる。体を痛めていない人間が、痛い思いをしていないやつが軽々しくプロレスをどうこう言わないでくれ。ファンはお金を払っているから、なにを言おうと自由なんだよ。アンタたちマスコミも仕事としてそれをやらなきゃいけない立場にいる。だけど、プロレスに関わっていた人間、元レスラーには言ってほしくない。それがいちばん腹が立つ」
そんな単純な思いから発したセリフだった。
ところが、対角線に位置するはずの中邑真輔までがみのるに同調した。
「鈴木みのるの発言は、棚橋も含めすべてのレスラーの気持ちを代弁したもの。彼は自分のプロレスに自信とプライドを持っている」
過去との闘い。歴史との勝負。棚橋弘至vs鈴木みのるのIWGPヘビー級選手権は、重い重い試合となった。29分22秒の激闘。相手をカバーしたのは、一度だけ。棚橋がみのるから3カウントを奪った瞬間だけだった。
ベルトより重いもの。過去と歴史との勝負に勝った。この試合をクギ付けになって観た人間は、みんなそう感じたはずだ。

年末の東京スポーツ『プロレス大賞』のベストバウトは、棚橋弘至Vsオカダ・カズチカ戦(6・16大阪ボディメーカーコロシアム)が獲得した。
ただし、週刊プロレスのファン投票によるベストバウト部門では、ダントツで棚橋Vs鈴木が選出された。
ネット発信者のファン246人が参加した『ネット・プロレス大賞2012』でも棚橋Vs鈴木がベストバウトを受賞。さらに、アメリカの『レスリング・オブザーバー』誌が全米ファンの読者投票により決定するアワード2012でも、棚橋Vs鈴木がベストバウトを獲得。
もうひとつオマケに、私が勝手に決定するGK金沢克彦ブログ『ときめきプロレス大賞2012』でも、棚橋Vs鈴木をベストバウトに選出している。

思いはファンと同じだった。そこで私流に講釈をたれるなら、あの試合は一期一会の闘いであったから。あの時代、あの瞬間、あのシチュエーションはおそらく二度とめぐってはこないからである。
多くの言葉は必要なかった。感じるままを口にしたみのる発言が、ファンの心を揺さぶり試合のテーマまで決定づけた。他のレスラーもファンもマスコミも、みのるが示したベクトルに向けて一緒に闘っているかのようだった。
全米のプロレスマニアまで魅了した一期一会の闘い。それこそレッドカーペットの花道を用意して、鈴木みのるを表彰してもいいのではないだろうか(笑)。
だけど、みのるは「フン」と鼻で笑いそう。一期一会ならもう終ったことだろ、俺は今を生きている、今はただアイツをブン殴りたいだけ。
そう言うに決まっている。

次のターゲットは目の前に現れた。レインメーカーことオカダ・カズチカ。
今年がデビュー25周年となるメモリアルイヤー。しかし、鈴木みのるに特別な感傷などない。自分がデビューしたころに生まれた25歳のオカダ・カズチカと“今”を懸けて闘うのみだ。

2013.02.06

第2回 チャンピオン・ベルト

先だっての5月2日、愛知県体育館で浜亮太を破った鈴木みのるが2年8カ月ぶりに三冠ヘビー級王者に返り咲いた。右膝手術による武藤敬司の長期戦線離脱、小島聡の電撃退団発表と現在の全日本プロレスは激動・激震に見舞われている。そんな状況下、みのるが頂点に立ったわけだが、私に言わせれば必然の戴冠劇。
一般的に“激動・激震”と“必然”ではイコールに程遠い言葉となるのだが、三冠ヘビー級王者=鈴木みのるに関しては必然という単語がもっとも相応しいと思う。

かつて外敵、外様、フリー戦士と呼称されていたみのる。だが、全日本マットをここ数年見守ってきたファンにとって、今のみのるの存在はすべての枠を超えた絶対エースと映るだろう。紛れもなく彼が全日本マット全体をリードしている立場にあるし、今回3本のベルトを手にした直後に太陽ケア、曙、船木誠勝との共闘を宣言したのもサプライズとは思わない。その後、諏訪魔率いる新世代軍に「昨日今日プロレス始めた奴がプロレスを語るな!」と宣戦布告したのも必然の流れだ。
つまり、今のみのるにとってそこに3本のベルトがあるのは特別なことでもなんでもない。絶対的エースとしての必然なのだから、力む要素すら何もない。
では、この瞬間、みのるは何を思っていたのか?勝手に推理するなら、この瞬間やっと船木を超えたことを実感できたのではないだろうか?いやいや、こんな話を本人に振るともう大変だ。「フン、勝手に言ってろって。恥をかくのは書いた人間だから俺は関係ねえよ!」と鼻で笑うに決まっている。だから、これは私の勝手な理屈付けである。とにかくこの日、鈴木みのるは永遠の目の上のタンコブであった船木誠勝を超えてみせたのだ。

まず、ここ2カ月の激動期を少し振り返ってみたい。
3・21両国大会の金網マッチ、4・11JCBホールの『チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦と、みのると船木はまさかの2連戦を決行した。みのるは22年のプロレスラ―人生で培った引き出しを次々と開けて船木に対していった。その結果(1勝1敗)は別として、この闘いを体感したことで悩める船木は完全に蘇生している。みのるとの2連戦を経て、明るさと輝きを放ち始めたのだ。今までブラックホールの如く相手の光を消す闘いしか知らなかった男に、みのるが初めてプロレス本来の楽しさと厳しさを教え込んだと言っていいのかもしれない。

4・29後楽園ホール。みのると船木が初タッグを結成する当日、試合前の船木はにこやかにこう言っていた。
「毎日キツイし無我夢中だけど楽しいですよ。実は俺、今まで自分の試合をビデオとかで一度も見直したことがないんです。それは観てしまうと多分、ここがダメだからこうしなきゃとかそんな点ばかり見つけてしまうと思うから。今はこれでいいから、行ける所まで突っ走りますよ。プロレスと格闘技をやってきた財産と、その時の感性で走ります。もしどこかで怪我とかしてストップしてしまったら……そこからまた考えればいいんですから」
真っ黒に日焼けした船木の顔から松崎しげるばりの白い歯がこぼれる。その笑顔には一点の曇りも感じられなかった。完全に吹っ切れたのだろう。

考えてみると、みのるとチャンピオン・ベルトの関係は元々、みのると船木の関係そのものであった。
鈴木みのるが初めて巻いたベルトは第2代キング・オブ・パンクラシストのベルト。95年の5・13東京ベイNKホール大会で無敵のウェイン・シャムロックを下し王者となった。この時、みのるの胸中に去来した思いは「初めて船木さんを追い越した」である。だが、それが転落の始まりでもあった。当時、バッキバキのハイブリッドボディを誇り、人気俳優の的場浩司似とも言われていたみのるを世間は放っておかなかった。例えば女性ファション誌『an・an』の抱かれたい男ランキングでは堂々とベスト5に入っており、なんとキムタクよりも上位。周りはすべて芸能人だから、本当にとんでもない快挙である。
これでテングになったかどうかは分からないが、リング上では4か月後の初防衛戦(vsバス・ルッテン)に敗れ、その後、頸椎ヘルニアを発症してさらなる地獄を味わう。しかし、転落の発端は「船木を超えた」という達成感に満たされたことで、目標を失ってしまったことにあることは明らかだった。
「実際は追い越してなかったし、超えるものじゃなかったんですよ。でも俺の中の目標は、新弟子時代いつもランニングしている時に見ていた(船木の)背中だったから」
おそらく、この経験からみのるはチャンピオン・ベルトの怖さや、チャンピオンであることの意味合いを痛感したのだろう。

だからこそ、初めて三冠ヘビー級王座に挑む(06年9・3札幌大会/vs太陽ケア)前に、みのるはこう言っていた。
「初めてベルトを獲った時に勉強したんだろうね。ベルト、タイトルを目標に生きてきて、それを持った時に目標がなくなって……『大事なのは獲ることじゃないんだ』って。それは目標にするものじゃなく、後からついてくるもの。レスラーとして絶対に大前提にしなきゃいけないことは、まず『相手に勝つこと』で、その上の世界として『客を満足させるだけの技量があるかどうか』っていうのがあって、ベルト云々はそのさらに先にポツンとあるもの。やっぱり俺にとって大事なのは『今この瞬間が一番大事』なんであって」
パンクラス時代、勝負論だけで生きてきた男が、新日本、ノア、全日本の三大メジャーのリングを渡り歩き、辿りついた答えがそこにあった。
そして、三冠王座を1発で奪取したみのるは、伝統と格式に包まれた3本のベルトをブンブンと振り回し、踏みつけにして、花道の特設ステージに無造作に並べた。そこへ津波のように押し寄せるファンに向かってみのるはこう訴え掛けた。
「なあ、ベルトがすげぇーんじゃないだろ?強い奴がすげぇーんだろ!?」
さらにバックステージでは、マスコミ陣をこう諭している。
「大事なのは歴史なんかじゃない。今この瞬間、頑張っているから、今この瞬間、闘って二本足で立っているから強いんだろ?」

そして、チャンピオンとなったみのるは、また別次元の作業に着手し始めた。
ベルトの価値を上げることではなく、ベルトを利用してタイトルマッチの注目度、ひいては全日本マット全体の注目度を上げる。つまるところ、それは自分自身の価値を上げることでもあった。
みのるの第一次政権は翌07年、8・26両国大会で佐々木健介に敗れるまでの約1年間。19年のライバルストーリーを持つ健介との試合も凄まじかったが、なんといっても5度目の防衛戦となった武藤敬司との正真正銘の初一騎打ち(同年7・1横浜大会)が印象深い。完璧に整った舞台で全知全能と全体力を駆使した闘い。武藤敗北という予想外の結末に加え、フィニッシュ技がヒールホールドというサプライズ。私的観点からいくと2000年代……つまりこの10年でNo.1の名勝負だったと思う。

ここで、またみのるは何かを学んだし、「俺はすべての面で武藤敬司に負けない!」という自信も掴んだ。そして、ベルトから離れていた2年8カ月、みのるの基本姿勢は決してブレることはなかった。必然として、時は来たのだろう。武藤不在の全日本マットを自らリードしていこうと決めた瞬間、ベルトがついてきた。そこに同志として船木誠勝という男も飛びこんできた。結果的に、本当の意味で船木を超えていたこともこれで証明された。

さて、もう間もなくワクワクするようなマッチアップも見られる。5・9大阪大会。そこは、アントニオ猪木のリングであるIGFだ。
三冠王者・みのるのパートナーは、新日本の至宝・IWGPジュニア王座を巻く丸藤正道(※前日、新日本のJCBホール大会でタイガ―マスクとの防衛戦を控えているが)。かつて、ノアマットでGHCジュニアタッグ王者に君臨したチームが猪木のお膝元で復活する。しかも、対戦相手は未知の小川直也(パートナーは澤田敦士)ときた。
プロレスを舐め切った知名度抜群のプロレスラー(?)小川に対し、骨の髄までプロレスラーのみのると丸藤は何を見せつけてくれるのか?
結果論として二大メジャーの象徴的ベルトをたまたま巻いているわけだが、この2人が現プロレスシーンを牽引している両雄であることは、ベルトの有無に関わらず誰もが認めるところだろう。

2010.05.04

第1回 ヒール

今年の初場所で幕内通算25回目の優勝を飾った横綱・朝青龍が、場所中に起こした泥酔暴行騒動の責任をとる格好で遂に引退へと追い込まれた。横審(横綱審議委員会)の前委員である内館牧子さんは「品格に欠く」と度々、朝青龍を糾弾してきたが、この横綱はそんな声もどこ吹く風で土俵内外を暴れ回ってきた。ともかく人気は絶大。大相撲の世界で、しかも横綱という最高位にありながら“ヒール”と呼ばれた力士は、この朝青龍が最初で最後となるだろう。そういえば、初場所優勝セレモニーの際に、東京都知事杯を贈呈するため土俵に上がった猪瀬直樹副知事は、「ヒールが強くなければおもしろくない! おめでとう」と目立とう精神まる出し、実にKYな一言を添えつつ都知事杯を手渡していた。

もともとヒールというのはアメリカのプロレス界から生まれたスラング(隠語)である。ほんの数年前までは、プロレスに関わるごく一部の人間だけしか使うことのない俗語だった。それが天下のNHKが全国区で生放送する大相撲の優勝セレモニーの中で、しかも副知事の口から堂々と発せられるのだから恐ろしい。今やヒールなる言語はすっかり市民権を得て、相撲界の隠語であった“ガチンコ”と並ぶ一般用語になってしまった感がある。

さて、そこで本題だ。泥酔暴行騒動、品格、そして内館牧子さん、おまけにヒールというフレーズが続けば、皆さんはおそらく、いや間違いなく、あの男の顔を思い出すに違いあるまい。我らが鈴木みのるである。
そう、みのるは地方巡業でしょっちゅう泥酔暴行騒動(?)を起こしている。といっても、この場合、いつも酔った勢いでNOSAWA論外が、「鈴木さん、殴り合いしましょうよ!」となぜか親分のみのるに決闘を申し込む。売られた決闘を買わねば男がすたるとばかり、みのるは二つ返事でそれを買う。まあ、結果は予想通り。子分のパンチはかすることもなくかわされ、いつも気持ちいいほどにNOSAWAがボコられてお終いなのだ。まさに師弟のボディランゲージともいえるが、あまり美しい話ではない。まあ品性というか、品格には欠く。あっ、そうそう品格といえば、それをプロレス界で初めて指摘された人物もみのるだったではないか! しかも、『プロレス大賞』特別選考委員を務める、かの内館さん直々のお言葉だった。遡ること3年数カ月前、鈴木みのるはプロレス大賞のMVPに選出された。その時、内館さんが「MVPとしてはちょっと品格に欠けるのではないか?」というような問題提起を投げ掛けたのである。
プロレスラーと品格。
決して永遠にイコールで結ばれることはないであろうテーマが浮上してくると同時に、鈴木みのるはプロレス界の頂点に立った。品格とは無縁と思われる世界で品格を疑われた男がMVPに輝いたのだ。

次なるキーワードがヒールである。これもまた遡って、06年12月半ばのこと。ちょうど、みのるのMVP受賞が決まった直後の話だ。私は某誌の企画により赤坂プリンスホテルの会議室でアブド―ラ・ザ・ブッチャ―と対談していた。
ブッチャ―といえば、タイガー・ジェット・シンと共に、日本マットが生んだ二大ヒールの一翼であり、馬場体制・全日本プロレスを躍進させた最大の功労者でもある。知名度は抜群で、頭もスマート。当然のように、ビジネス観に関してはシビアそのもの。どんな話題を振っても、結局、彼のファイナルアンサーはすべて「マネー」(=金のため)だった。ただし、一つ気付いたことがある。ブッチャ―の回答がすべて「マネー」であったとしても、彼が指すものは物質的なお金そのものではなく、対価としての価値観なのだろうと思ったのだ。つまり、お金がプライオリティなのではなく、お金こそが彼のアイデンティティの象徴なのだ。
フォークを手に暴れ回り、額に幾筋もの深い溝を作って稼いだ金は、実に尊いような気がした。そんなことを思っているうちに、この日本マットに品格を問われるMVP男が現れたことをブッチャ―に知ってもらいたくなった。
「ブッチャ―さん、今年のMVPを獲った鈴木みのるという選手をご存知ですか?」
「スズキ……いや、知らないね」
「彼も、ブッチャ―さんがテリ―・ファンクをフォークでメッタ刺しにしたシーンを少年時代にテレビで観て、それからプロレスファンになったというんです」
「そうか(苦笑)。で、そのスズキはヒールなのかい? ベビーフェイスなのか?」
「コレは英語でどういうのかなあ? 彼は“世界一性格の悪い男”と呼ばれていて(笑)……あまり反則攻撃をしたり凶器を使ったりはしないけど、発言とか試合態度がとてもストレートに意地悪で新しいタイプのヒールじゃないかと」
「こんど観てみたいな。とにかくスズキは客を呼べる男だってことだろ? じゃあ、どっちにしろ彼はスター選手なんだよ」

その1年後のことだった。劇的に両者は遭遇する。07年10月、全日本プロレスの代々木大会でタッグマッチながら初対決。しかも試合後、みのるはブッチャ―に歩み寄ると握手を交わし、合体を表明。翌月の『世界最強タッグ決定リーグ戦』へのエントリーまで勝手にぶち上げた。この時点で、まだブッチャ―の方は鈴木みのるの何たるかを理解していないようだったが、みのるは喜色満面。
「すげえー面白いオモチャ見つけちゃったよ。あのブッチャ―だぜ! 最強タッグはこのオモチャを使って存分に遊ばせてもらうから」と独特の言い回しを駆使して珍しく熱弁を振るった。
さらに、その3週間後のこと。新木場1stRINGという小さなハコに、突然ある男が現れた。ブルーザ―・ミノディという鈴木みのる似の男。というか、故ブルーザ―・ブロディをみのるがパクッて、パートナーはタカン・ハンセン(高山善廣)……つまり鈴木&高山が懐かしの超獣コンビを再現したのである。このブロディがまた激似だった。チェーンの振り回し方から、客席に躍り込んで「ウォッ! ウォッ!」とシャウトする様から、片足踏み切りドロップキック、コーナ―へのビッグブーツ、そしてキングコング・ニ―ドロップと一連の完コピぶりには驚かされた。まあ、このブロディという男も時代を彩ったヒールの凄玉である。
あとで聞いてみると、「なんせ昨日、20分もビデオで研究したからな」とみのるは涼しい顔をしていたものの、実際は3時間近くも昔のブロディの試合映像を観て、その特徴を研究していたらしい。
この話は、まだ終わらない。その2週間後、みのるとコンビを組んで『最強タッグ』に出場するブッチャ―が来日。たまたまテレビのCS放送(サムライTV)を観たブッチャ―はまん丸の目をさらに丸くした。本物より小柄だが、ブロディそっくりの男がファイトしている姿を目に留めたのだ。試合前の控室でブッチャ―がその話を振ってきた。「ミスター・ブッチャ―、アレは俺だよ」とみのるが言うと、ブッチャ―のまん丸の目はさらにもっと丸くなった。
「そうか! アレはユーか。ソックリだったよ、フランクに。あんまり似ているんでビックリした。俺はこの通りもうトシだからあんまり動けない。その分、今回のツアーではユーがリードしてくれると期待しているよ」
その言葉通りに、みのるから見たブッチャ―は最高のオモチャだったし、ファンから見れば生きる伝説そのもの。大歓声の中、連日フォークを手に生き生きとリング内外を暴れ回った。そして、いつの間にか、みのるのことを「ティ―チャ―」と呼び始めた。試合の作戦から何からすべてみのるが考えて、リードしてくれたからだ。
レジェンド・ヒールのブッチャ―から「先生」と呼ばれたら、みのるも悪い気はしないだろう。ちょうど1年前、私が「鈴木みのるを知っていますか?」と質問したことをブッチャ―は思い出してくれたろうか? 新しいタイプのヒールという表現を理解してくれただろうか?

ここ最近、ヒール側へと区分けされる日本人レスラーが急増してきた。凶器は使うし、反則・乱入はお手のもの。それなのに、「普段はとてもいい人」だとか「ファンには優しい」なんて評されるレスラーは最悪だ。それじゃあ、「仕事で悪役やってます」と言っているようなものだし、見え透いていて面白くもない。
みのるを見ろ! Tシャツを購入したファンにもあんまり優しくないし、マスコミにも媚を売らない。基本的に態度がデカくて、意地悪で、感情剥き出しに笑ったり怒ったり……そのくせ時にホロリとくるような言葉をマイクを通して訴えたりもする。作りものではない、その場の生の感情をぶつけるプロレスラ―が鈴木みのる。それは普段の彼の生き方そのもの。これが新しいヒール像といえるのかもしれないし、少なくとも他の誰にも真似のできないプロレスである。

新日本プロレスの練習生だった18歳の頃も、キャリア20年を超え四十路に入った今も、私の中のみのるは何も変わらない。顔を合わせれば、「おお、オッサン!」と、まずは悪態から始まる(笑)。この真っ正直な“悪童”は、どこのリングに上がろうと誰を相手にしようとも光り輝いている。

2010.3.21

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