金沢克彦の不定期コラム

金沢克彦(かなざわ・かつひこ)Profile

1961年12月13日生まれ。青山学院大学経営学部卒業。86年5月、新大阪新聞社『週刊ファイト』記者となる。
89年11月、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ移籍。99年1月〜04年10月まで編集長を務める。
05年11月に退社しフリーライターとなる。
テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の解説を務めるなど口も達者。通称GK(=ゴング金沢)。
著書に、鈴木みのるとの共著『風になれ』(東邦出版)の他、『力説』(エンターブレイン)、『子殺し』(宝島社)。

こちらのコラムは不定期で更新いたします。

第6回 10カウントゴング

1話
前代未聞の引退試合だった。2月21日、東京・後楽園ホールで開催された『飯塚高史引退記念大会』のメインイベントの一部始終である。
飯塚の32年余のレスラー人生にピリオドを打つ引退試合として用意されたのは、6人タッグマッチ。オカダ・カズチカ&天山広吉&矢野通vs飯塚高史&鈴木みのる&タイチというカード。
新日本&CHAOS合体軍vs鈴木軍という、わかりやすい図式。対戦相手となるオカダ、天山、矢野はそれぞれ飯塚と関わりの深いメンバーでもある。
そのなかでも、引退試合に向け特にクローズアップされていたのが、天山と飯塚の関係だった。
現代プロレスの象徴ともいうべきオカダが闘龍門から新日本プロレスに移籍入団したのが、2007年8月で、再デビューしたのが2008年4月のこと。
当時、飯塚は新日本道場のコーチを務めていた。1990年代、新日本の現場監督である長州力から絶大な信頼を受けていた飯塚は95年夏から野毛道場のコーチに就任。途中、1年ほどブランクがあるものの、10年も若手レスラーの指南役を担当していたのだから、これはかくれた実績でもある。
オカダに聞くと、「まさに鬼コーチでした。それもふくめて“ザ・新日本プロレス”という印象がイチバンですね」と振り返る。
私事になるが、1986年にデビューした飯塚は、同年5月に『週刊ファイト』(新大阪新聞社)の記者となった私と業界同期にあたる。だから、私なりの彼の性格はよく知っているつもりだ。
プライベートでは、口数が少なく真面目で温厚そのもの。ところが、ことプロレスになるとクソがつくほど真面目にトレーニングに励み、リング上では頑固一徹、絶対に自分を曲げることがない。 上の世代には闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)がいて、下には第三世代(天山広吉、小島聡、永田裕志、中西学)がいた。
彼らに比べたら、スター選手として出世街道を歩んだわけではないのだが、それでも新日本一筋にレスラー人生を突き進んできた。そこを指して、オカダは「ザ・新日本プロレス」と飯塚を称したわけである。

2019.03.06

2話
それだけ生真面目で、ある意味融通のきかない男が、ある日を境に大変身した。2008年3月、当時の極悪ユニットGBHを追放された天山と電撃握手。いわゆる、友情タッグを結成したものの、1カ月余で天山を裏切ってGBHと合流したのだ。
それが、4・27大阪事変である。5日後、後楽園ホールで因縁の天山と一騎打ちを行なった飯塚の風貌は激変していた。スキンヘッドに髭を蓄え、なぜか三角巾を吊って、そのなかにはアイアンフィンガーという凶器。まるで絵に描いたようなヒールそのものの、クレイジーファイターに変身していた。
それ以降、天山とは2年半で7度のシングルマッチ、うち4回がデスマッチ形式の試合だった。そういった過去の因縁もあって、天山が飯塚を更生させる、最後に友情を確認するというのが、ひとつのテーマとなり飯塚のフィナルロードが進んでいった。
いかにもプロレス的だなあと笑うことなかれ。本気も本気。天山も本気で飯塚のフィナーレを思い遣り、11年前に発売されながら、飯塚の裏切りであっという間にお蔵入りした“友情タッグTシャツ”を捜索しはじめた。
天山に頼まれて、私も友情タッグTシャッツ捜索隊(?)に参加した。その結果、東京スポーツのベテランカメラマンから1枚が提供され、群馬県在住の天山ファンの方がもう1枚を送ってくれた。
この天山ファンの方のTシャッツには、なんと2人の直筆サインが入っていた。まさに、超レアもの。なぜかと言えば、2人が新作Tシャッツのサイン即売会を行なったのは、飯塚が天山を裏切ったIWGPタッグ選手権当日(2008年4・27大阪府立体育会館)の大会前と、その前日(闘魂ショップ大阪支店にて)の2回だけ。
手に入ったことじたいが奇跡のようなものだった。サイン入りのレアものは、2・11大阪大会で飯塚と鈴木みのるによってズタズタに破られてしまった。だから、2・21後楽園ホールで天山が着用したものは最後の1枚だった。
本気の思いで天山がファイナルマッチに臨んだのと同様に、飯塚本人はもちろん本気だったし、鈴木軍のボスである鈴木みのるも本気だった。たしか、1・29後楽園ホールの試合前だった思う。
バックステージの非常口階段のところにいると、たまたま鈴木がやってきた。大会開始前だから、鈴木もまだスイッチが入っていない。すこし雑談を交わす。この時点で、飯塚の引退試合のカードはまだ発表されていなかったが、たまたまその話になった。
「頑固だもん、あの人は。いまいる人間で、あの人に意見したりできるのって、オレしかいないじゃない。でも、聞かないもんなあ」そう言って、鈴木は苦笑いを浮かべた。そうか、みのるの意見も聞かないのか?やっぱり、飯塚は変わっていない。新日本正統派の権化のような存在から、怨念坊主スタイルに変身してから11年弱。
ふつう、あのスタイル、キャラはいつか飽きられるし長続きしないもの。それを11年も続けてきたのだから、頑固一徹で生真面目な性格は今でもまったく変わっていないのだろう。
鈴木との会話から想像が膨らんだ。やはり飯塚はあのスタイルのまま現役生活を終えるのか?あるいは、最後の最後に「ザ・新日本プロレス」に戻って、リング中央で送別の10カウントゴングを聞くのか?そうなれば、かつての盟友たち、先輩・後輩からの花束贈呈があったり、飯塚自身の引退スピーチも聞けるかもしれない……。いやいや、さすがにそれはないか?
いずれにしろ、これだけ予測不可能なレスラーの引退試合を迎えるのは、私の記者キャリア33年においても初のケースである。
ただし、本当の意味でカギを握っているのは、やはり鈴木みのるだろうと思った。2014年の5・25横浜アリーナ大会で、CHAOSの矢野を裏切って鈴木軍に加入した飯塚。
これは必然であった。当時、すでにCHAOSにヒールカラーはなくなっていたし、飯塚の存在自体がイレギュラーに見えていた。とことん嫌われるヒールユニットである鈴木軍に加入したほうが、しっくりくるのは当たり前。まして、そこには鈴木みのるがいる。
飯塚と合流した鈴木は、「飯塚は鈴木軍のペットだから」とうそぶいた。みのるらしい、言いまわしだなと思った。おそらく鈴木はCHAOSより、鈴木軍に加入したほうが飯塚のキャラは断然光ると感じていたのではないか?
なにせ、両選手は旧知の間柄。それも、30年以上前から互いを知り尽くしているのだ。

2019.03.09

3話
今回の飯塚引退に関して、あまり触れられることのなかった飯塚と鈴木の関係、エピソードを記してみたい。
飯塚が練習生として新日本に入門したのは1986年5月で、鈴木が入門したのは翌87年3月のこと。ところが、デビュー戦まで鈴木の場合、時間がかかった。
飯塚は86年11月2日、山口・豊浦町大会で野上彰(現・AKIRA)を相手にデビューしたが、鈴木実(当時)のデビューは88年6月23日の横浜文化体育館。デビュー戦の相手は、飯塚孝之(当時)だった。
高校時代、レスリングの強豪として鳴らしていた鈴木がなぜデビューまで、1年3カ月も要してしまったかというと、あの事件(?)があったから。本来であれば、87年の11・19後楽園ホール大会(UWF主催興行)でデビューが決まっていた。ちなみに、その11・19大会は前田日明による“長州顔面蹴撃事件”が起こった日である。
ところが、その直前に鈴木は騒動を起こしてしまった。船木優治(現・誠勝)とともに六本木で泥酔して、不良グループを相手に大立ち回りを展開。パトカー5台が駆け付ける騒ぎとなり、そのまま留置所に放り込まれてしまった。船木が18歳、鈴木は19歳、まさに若気の至りすぎである(苦笑)。
2人を引き取りにきたのが、坂口征二副社長(当時)で、鈴木は思いっきりぶん殴られた。なんとかクビは免れたものの、それから鈴木は3カ月の謹慎処分。それがあって、デビュー戦も先送りとされたわけである。
そういった経緯があって、本来なら飯塚の1年後輩でありながらデビュー戦が遅れたために2年後輩として位置づけられたわけである。
ただし、若手時代の飯塚は不遇だった。デビューしてから、業務提携していたUWFにつづいて、87年5月、全日本マットを離脱した長州軍団が新日本に舞い戻ってきた。新日本本隊、UWF、長州軍団、さらに来日外国人勢と新日本マットは人で溢れかえり、控室を用意するのも大変。当然、飯塚らの若手はなかなか試合を組んでもらえないし、地方巡業でも残り番を命じられることも多かった。
鈴木がデビューしたときには、すでに藤原喜明を除くUWFのメンバーはすべて離脱して、新生UWFが誕生していた。ラッキーもあるし、物怖じしない性格もあるし、藤原に可愛がられていたこともあるのか、鈴木はどんどん試合を組まれていった。
その鈴木効果は飯塚にも波及していった。逆エビ固めでデビュー戦の鈴木を破って以来、おとなしい飯塚に火が点いたのだ。新日本所属時代の鈴木がもっとも多く対戦した相手が飯塚。その他、佐々木健介、松田納(エル・サムライ)とのカードもよく組まれ、健介vs鈴木戦が当時クローズアップされがちであったものの、同じ釜の飯を食って雑用をこなしながら、リングで相まみえていた飯塚と鈴木がイチバンのライバル関係にあったと思うのだ。
ふだんは温厚そのものの飯塚とプライベートでもギラギラしていた鈴木。その真逆の性格も2人のいい関係に作用していたのではないだろうか?

2019.03.15

4話
当時の新日本にあってキャリアのイチバン浅い鈴木は、なかなか勝ち星をあげることができなかった。ようやく初勝利をものにしたのは、デビューから半年過ぎた飯塚戦。場所は、和歌山の岩出町体育館。決まり手は、なんと回転エビ固めだった。ただし、鈴木は納得がいっていない。
というのも、そのとき飯塚が風邪で発熱しフラフラの状態でリングに上がっていたからだ。その後も鈴木は負け続けた。
そして、鈴木に決断のときがやってきた。新生UWFへの移籍を心に決めたのだ。貪欲な鈴木のアピールが功を奏して、89年3月15日、愛知県体育館での第1試合でアントニオ猪木とのシングルマッチが実現。その翌日、3・16横浜文化体育館で飯塚と対戦した鈴木は腕ひしぎ十字固めで勝利。
初めて飯塚から完全なカタチで勝利を奪った。これが鈴木の新日本所属ラストマッチ。3月末に退団を申し出た鈴木は、UWFに新天地を求めた。
ここで興味深い記録を発見。鈴木が新日本の若手選手、いまで言うところのヤングライオンとして活動していたのは、9カ月弱。その間の戦績は、75戦して2勝65敗8分け。
つまり、2勝は飯塚から奪ったものだった。
わずか9カ月、されど9カ月。鈴木みのるは新日本の前座戦線を熱く燃え上がらせ、風のように去っていった。
両選手が戦場をわけてから数ヵ月後、私はそれぞれにインタビュー取材をしたことがある。
飯塚は同年6月、馳浩ともに旧ソ連に出向きサンボ留学を経験している。さらに、7・13両国大会では大抜擢を受け長州のパートナーとしてIWGPタッグ王座を奪取。
一方の鈴木は、同年5月21日、田村潔司のデビュー戦の相手を務め、UWF移籍後初勝利をあげていた。
「鈴木がいなくなって正直寂しいなあって。自分がデビューしてからの1年、試合を組んでもらえなかったり、巡業も残り番が多かったりで、ちょっと腐りかけていた時期もあったんです。それが変わったのは鈴木がデビューしてからですよ。先輩だろうがなんだろうが、潰してやろうとガンガンくるし。あいつとやると『よし、やってやる!』っていう気持ちになれてね。それに、あの性格が羨ましくもあったんですよね」
「俺自身が自分で決めてUWFに来たことになんの後悔もない。ただ、古巣が気にならないって言えば嘘になりますね。とくに、飯塚孝之! なにがサンボ留学だって。IWGPタッグチャンピオン? いい気になるなよ。いつかまたやったときには、グチャグチャにしてやりますよ。飯塚孝之にも、佐々木健介にも絶対負けない!」
それから互いに紆余曲折を経て14年半後、2003年8月31日、パンクラスの両国大会で両者は相まみえた。キャッチレスリング・ルールでの再会マッチは、鈴木の判定勝ちに終わっている。
2019年2月21日、後楽園ホール。引退試合において、飯塚高史は最後まで飯塚高史を貫いた。天山に引導を渡された後も、怨念坊主は観客席になだれ込んで荒れ狂った。
その様子を見ながら本部席のゴングを奪ってエプロンに置いた鈴木は、10カウントゴングを乱打した。お涙ちょうだいの演出などいっさいナシ。前代未聞にして、最高に格好いい引退試合。その幕切れ……。
その日、後楽園ホールには、飯塚と鈴木だけの時間がたしかに流れていたように思う。

2019.03.22

Copyright © M.GIGIE All rights reserved.